
投手と打者の役割を牽引する大谷翔平選手は日本を代表する選手としてメジャーリーグで活躍しています。
怪我の影響で昨シーズンは打者専門で出場した大谷選手ですが、彼が打者として成し遂げてきた偉業の数々を見ていきたいと思います。
【プロ野球での成績】
高校野球時代には阪神の藤浪選手からホームランを打つなど活躍を施しスカウトの目に止まります。
メジャーを志望していた大谷選手を日本ハムファイターズが説得し、国内で二刀流の腕を鍛えられます。
1年目からは3本塁打を記録し、打者としては順調なスタートでした。
2年目では二刀流の本領を発揮し、9月のオリックス戦でホームランを打ち、NPB史上初の同一シーズンで二桁勝利&二桁本塁打をマークしました。
しかし翌年は打者としては低迷してしまい、打率.202でシーズンを締めくくります。
続く年は打者としても投手としても調子が良く、2度目の同一シーズンで二桁勝利&二桁本塁打を達成します。
さらにはNPB史上初である10勝100安打20本塁打という快挙も達成し、その名を世界中に広めました。
そして最終登板となった試合ではNPBでは66年ぶりの4番・投手として試合に出場しています。
調子の波はあったものの、投手の役割も担っているとは思えないほど打者として活躍していた大谷選手は翌年にメジャーへと移籍します。
【メジャーリーグでの成績】
数々のオファーがメジャークラブからあった中で、大谷の二刀流を尊重してくれるエンゼルスへと移籍が決定しました。
本拠地初戦のクリーブランド。インディアンス戦で早速大谷選手は第一号本塁打を記録しました。
そしてそこから立て続けに3試合連続でホームランを打ち、エンゼルスファンの心を一瞬にして掴みました。
日本人による3試合連続本塁打は史上4人目であり、1年目の4月に達成したのは一人目だそうです。
その活躍が認められ、5月には活躍を遂げた新人を讃えるルーキーオブザマンスに選ばれました。
ファンから絶大な人気を得ていた大谷選手にはある秘密がありました。
それは彼の最初の9本のホームランが全て本拠地で打たれたということです。
これは球団史上初のことだそうで、地元のファンからは印象に残る存在になっていたそうです。
一年目から二桁本塁打を記録し、チームでの居場所を確立していきました。
しかし大谷選手はここで怪我に悩まされ投手としてのプレーは控えることになりました。
【2019年は怪我で打者専念も試合出場数は増えず】
メジャー2年目となった2019年シーズンは右ひじじん帯の怪我に悩まされます。
投手と打者の両方で出場した負担が原因とされ、このシーズンは打者だけに専念することを決めます。
開幕からリハビリを続けていた大谷選手は完全な回復には至っていませんでした。
4月までの試合には負傷者リストに追加されますが、5月に打者として復帰します。
翌月の試合では本塁打・三塁打・二塁打・一塁打を全て記録するサイクルヒットを打って見せました。
この記録をメジャーで打ち出したのは大谷選手が日本人で初めてです。
そして同月のアスレチックス戦では2年連続となる二桁本塁打を記録します。
好調に見えた大谷選手ですが左膝蓋骨の手術をを行うことを9月に発表し、全治8週間から12週間と予想されます。
この時点で2019年シーズンは終了を余儀なくされました。
メジャー2年目の大谷選手は怪我の影響で打者に専念しますが、試合出場数は増えませんでした。
そしてさらに左膝の怪我を抱え、本領発揮はできなかったシーズンとなりました。
【二刀流先駆者のベーブルースは25歳で打者専念】
大谷選手といえば打者と投手の両方でチームを助けられる「二刀流」で知られていますが、過去にも二刀流で名を広めた伝説的な選手が存在します。
それはレッドソックスとニューヨークヤンキースの両方で活躍したベーブルース選手です。
ベーブルース選手は当時スーパースターが揃っていたレッドソックスへと入団しますが、出場機会にあまり恵まれませんでした。
しかしそこでルース選手は投手として出場できないのなら打者として努力することを決めます。
そんな努力を見たチームは彼のバットを折るなど酷い仕打ちを浴びせました。
そして打者としては3年でたったの44試合にしか出してもらえませんでした。
しかし1919年にはMLB記録である29本塁打を記録し、ホームラン王に輝きます。
その勢いのままニューヨークヤンキースへと移籍すると、初めは投手との兼任を考えていましたが、25歳の年で打者に専念することを決めました。
かつてのチームメイトトリス・スピーカーは投手と野手の兼任は負担が大きすぎると彼に述べています。