田中将大

楽天ゴールデンイーグルスで活躍し、現在はニューヨークヤンキースに所属している田中将大選手。

力強いストレートや伝家の宝刀スライダーを武器にして活躍し、今では日本のみならず、世界的なトップレベルのピッチャーになっています。

そんな田中選手ですが、子供の頃は何とピッチャーではなく、キャッチャーとしてプレーしていたんだそうです。

なぜキャッチャーだったのか?。そしていつからピッチャーになったのかなどを調べてみました。

【野球を始めたのは小学1年生から】

初めて田中将大選手が野球をプレーしたのは、小学一年生の時でした。

当時彼が住んでいた兵庫県伊丹市には昆陽里(こやのさと)タイガースという少年野球チームが活動していました。

このチームの練習を見学している彼に、監督が「打ってみないか」と誘い、バットを持たされることに。打撃練習をしてみると、やったこともないのに上手くミートしてみせたんだそうです。

そして投げては肩の強さを発揮したんだとか。子供時代から抜群の野球センスがあったみたいですね。肩の強さを生かすべく、当時は一年生から六年生までキャッチャーのポジションでプレーしていたようです。

驚くことにチームメイトには、後に読売ジャイアンツの選手になる坂本勇人選手もいたんです。坂本選手がピッチャーで田中選手がキャッチャーというバッテリーを組むこともあったようです。

田中選手同様、坂本選手も野球センスが抜群で、負けず嫌いの二人は互いを意識して切磋琢磨していたようです。後に二人が日本代表のユニフォームを着て、一緒に戦うことになるとは誰も予想できなかったでしょうね。

【中学で宝塚ボーイズに入団】

坂本選手と一緒にプレーした子供時代を経て、田中将大選手は中学時代は、地元にある宝塚ボーイズに入団します。

入団当初のポジションはキャッチャーでした。田中選手は肩の強さはあるものの、反射的な動きの早さは今一つだったようです。

そういった事情があり中学一年生時の秋に奥村幸治監督により、ピッチャーへとコンバートされます。

ちなみに奥村監督はオリックスブルーウェーブや阪神タイガースなどで打撃投手を務めたというキャリアの持ち主。オリックス在籍時にはあのイチロー選手の相手も務めたそうです。

ピッチャー転向後の田中選手は、キャッチャー時代の練習で培った力強くてコントロールのよいストレートはもちろん、変化球もすぐに覚えるなど、ピッチャーとしての適性をさっそく示していたようです。後に伝家の宝刀となる切れのあるスライダーは中学二年の秋から取り組みはじめ、翌年の春にはある程度マスターしてしまったようです。

子供時代に所属していた昆陽里タイガースの新春会でのこと。田中選手がスライダーを高校まで野球をしていたチームOBのミットめがけて投げたところ、OBは全く捕球できなかったそうです。

中学生ですでにそんな球を投げているくらいですから、野球センスもすごいですし、努力も人一倍されていたに違いありません。

【高校野球での死闘】

子供時代のキャッチャーから中学でピッチャーに転向した田中将大選手。高校は、北海道の強豪校である駒大苫小牧高校へと進学します。

レベルの高い選手ばかりの強豪校でしたが、田中選手は一年生時ですでにベンチ入りを果たしています。二年生になると、主力となり甲子園に出場し、チーム最多の登板をするなど優勝の原動力となりました。

そして三年生となって迎えた夏。県予選を突破して、甲子園出場の切符をつかみます。

しかし、この頃田中選手は不調に苦しんでいました。球速を上げるために行ったフォーム改造がうまくいかず、試行錯誤しながらの苦しいピッチングだったようです。そしてこのフォームの不調は甲子園での試合が始まっても続いていたようです。

かつての子供時代に所属していたチームの監督がテレビ中継で見てすぐわかったくらいだったので、かなり深刻な不調だったようです。それに加えて甲子園の魔物のせいなのでしょうか。大会前から発熱や腸炎からくる下痢に苦しむなど、万全にはほど遠い状態で投げていたようです。

彼にとっての魔物は、エースとしての重圧だったのだと思います。最後は伝説となった斎藤佑樹を擁する早稲田実業との決勝再試合の末に敗れてしまい、三連覇はなりませんでした。

【プロ入り後は球界を代表する屈指の投手に】

高校卒業後は、ドラフト一位指名で四球団競合の末に楽天ゴールデンイーグルスに入団します。当時の監督は名将、野村克也監督でした。

ある試合で打ちこまれたにも関わらず、田中将大選手になぜか負けがつかないので、彼を「マー君、神の子、不思議な子。 」と称したことでも有名ですね。

そんな野村監督の方針もあり一年目から先発ローテーションに入ると、二桁勝利を挙げて新人王を獲得。プロ三年目には、WBC日本代表に選出され日本の連覇に貢献します。2011年には沢村賞を獲得。名実ともに日本球界を代表するピッチャーになっていきます。

そして、2013年にはついに悲願であるチーム初の日本一を達成します。MVPや二度目の沢村賞、ベストナインなどの賞も獲得しました。

そしてメジャーリーグへ。チームを優勝させてメジャーへ行くなんてマンガの主人公のようですね。メジャーでもニューヨークヤンキースに所属して一年目から二桁勝利をあげるなど、今現在に至るまで活躍をしています。