本田圭佑

【小学生時代に両親が離婚、その後は祖父母に育てられた】

今や無回転フリーキックなどでサッカー日本代表の顔になるまで上り詰めた本田圭佑選手ですが、壮絶な子供時代を経験しています。
大阪府摂津市に生まれた本田選手は幼い頃からサッカーへの情熱を見せます。
小学校二年生の時に地元の攝津FCに入団しますが、その同じ年にご両親が離婚してしまいます。
本田兄弟はお父さん側に引き取られましたが、ショックは大きかったようです。
そして中学時代までは祖父母に親代わりとなってもらっていた本田選手は日々サッカーの練習に励んだそうです。
「幼い頃に両親が離婚。大好きな親だったからショックを受けました。毎日練習に明け暮れた」と語る本田選手は悲しい出来事から目を背けるためにも黙々と練習を続けていました。
冬場にもかかわらず半ズボンでボールを蹴っていたというエピソードも赤裸々と話しています。
そして中学時代にガンバ大阪ジュニアユースに所属が決まります。
しかし成長期が他の人と比べ遅かった本田選手はガンバのユースへと昇格できなくなり、ここで挫折を味わいます。


【高校で地元を離れ、石川県へ】

ガンバユースに上がれないという挫折を味わった本田選手でしたが、諦めることなく石川県の強豪校である星稜に進学したいと父に伝えます。
入学した年は星稜高校集大成の一年と言われ、日本代表フォワードの豊田陽平選手も三年生として出場していました。
その中で一年生ながらスタメンを勝ち取っていた本田選手は大きな存在感を示していました。
当時から正確で強烈なキックを持っていた本田は監督の目にも止まり、頻繁に起用されるようになりました。
先輩に対してタメ語を使う本田選手は三年生選手と衝突することもあり、一時チーム内で浮いていたそうです。
しかしながら彼の才能を周りが認め始めるとすぐに溶け込んでいきます。
高校生ながらにストイックで努力家だった本田選手はチームの中心核となり、エースナンバーの背番号10を背負うことになります。
2年連続でチームをベスト16まで進出させ、自身の最後の年キャプテンとしてでは石川県勢初のベスト4へとチームを導きます。
高校卒業後、Jリーグの名古屋グランパスエイトと契約を結んでいます。

【Jリーグ、日本代表、世界を転々と活躍を続ける】

名古屋グランパスエイトへと移籍を果たした本田選手ですが、契約時には海外クラブからオファーが来れば移籍を認めるという条件で契約したそうです。
そして三年後にはオランダのVVVフェンローから声がかかります。
ここでレギュラーに定着するも、チームは二部へ降格してしまいます。
背番号10番を背負った2年目では攻撃の軸としてチームを二部優勝、そして一部昇格へと導きました。
そして2010年、約12億円でロシアリーグのCSKAモスクワへ移籍を果たします。
四年間在籍し、欧州最強クラブを決めるチャンピオンズリーグにも出場します。
そこでの活躍が認められ、イタリアリーグの名門チームであるACミランに自ら背番号10番を希望して移籍します。
初の先発出場となった試合では得点を記録するなど、幸先の良いスタートを切った本田選手でしたが、次第に出場機会に恵まれなくなりました。
それでも日々熱心に練習を続け、指導をした監督は本田選手に好印象を持っていたと明かしています。
また、メキシコ、オーストラリア、ブラジルリーグと渡り歩いた本田選手は次にどのリーグでプレーするかが注目されています。


【誰もが才能より努力を認める珍しいタイプのスター選手】

日本代表の攻撃の軸として定着し、歴史上6人しか成し遂げていないワールドカップ3大会連続ゴールを記録を打ち出すなど凄まじい活躍を本田選手は見せました。
しかしその裏には計り知れない努力があったことがわかります。
幼くして両親が離婚し、祖父母の元毎日サッカーに明け暮れた本田選手はそこで才能を開花させていきました。
中学でガンバ大阪のジュニアユースに入団するも、高校でユースに昇格できず初めて挫折を味わいます。
しかし本田選手はそこで諦めず、名門校の星稜に入団しそこでも練習に励みました。
才能が認められJリーグの名古屋に移籍するとそこからは海外のリーグを転々としながら日本代表としても活躍していました。
そして今ではカンボジア代表の監督やサッカークラブの経営者としての顔も見せています。
ワールドカップ優勝を常に目標として掲げていた本田選手からはストイックさが見られ、彼の計り知れない努力が功を奏して今の成績があると思います。